山岸凉子漫画感想ブログ

山岸凉子先生の漫画作品の感想を書いていきます。普通にネタバレしてますのでご注意ください。

40歳を過ぎた永遠の妖精。「クリスマス」1976年

あらすじ

親戚を転々としていた少年・ジョルジュは、フォーク家に居候することになった。
ジョルジュを厄介者扱いする大人ばかりの家で、年の離れた従姉のミス・スックだけはジョルジュに優しかった。
俗世間と切り離されたような暖かい台所で過ごしたジョルジュとミス・スックの5年間は、とても幸せなものだった。


おや、雪だ……。クリスマス・イブにふさわしい……。

カポーティの『クリスマスの思い出』が原作らしいです。
両親が離婚して一人ぼっちのジョルジュと、フォーク家の中で浮いていたミス・スック。世間からもフォーク家からも切り離された二人は、毎日毎日料理を作ったり菜園と花畑に水をやったりして、時の止まったような日々を過ごします。

少女のようなミス・スックは40歳過ぎても結婚も仕事もせず、引きこもりがちで、家族からは馬鹿にされ、草花と犬のバディと子供のジョルジュにしか関心を持ちません。実家がやや裕福だから最低限の衣食住は保証されているものの、現金収入は手作りの煎じ薬の代金しかありません。他人の大人とはまともに社交もできず、7歳のジョルジュに「僕が守ってあげなくちゃ」と思わせるほどすぐ泣きます。
現代日本の言い方で言ってしまえばほぼニートのおばちゃんですが、ジョルジュからすれば彼女は唯一無償の愛を与えてくれた、かけがえのない存在です。
若草物語』のベスとか、山岸作品のキャラでいうと『パニュキス』のネリーとかと同じタイプかな。世間擦れしてなくて、弱くて純真で繊細で泣き虫で、世間の荒波で溺れ死にそうなタイプ。リアルでこういう人に会うと心配になってしまいます。

クリスマスは木の実の入った素朴なケーキをたくさん焼いて、知人や施設、果ては芸能人や大統領にまで送ります。郵便局の人に笑われても、それが彼女の唯一の楽しみでした。

冬の光をあびてミス・スックは森の中の妖精のように見えました。
四十を過ぎた妖精?
ええ! そうです。彼女は永遠の妖精なのです。

そして森でモミの木を切り…手作りの飾りと綿でツリーを飾りつけ…
二人で丘の上に立ち、お互いのクリスマスプレゼントである、手作りの凧を揚げあいます。
この「最後のクリスマス」の凧揚げのシーンでミス・スックが言った言葉がすごく印象的で好きなんです。

「ねえジョルジュ、今やっと気がついたわ。
わたしはねえ、死ぬときに初めて神さまがお姿を現してくれるのかとずっと思っていたのよ。
でもそうじゃないのね。わたしたちは毎日神さまにお会いしてるのよ。
今こうしてこの丘で、あなたとバディと凧をあげながら
この美しい風景の中にいることが、神さまにお会いしていることと同じなのよ。
このことを忘れないようにしましょうね、ジョルジュ」

ここからは少し感動の冷める個人的な感想。ミス・スックはジョルジュが少年の頃に若くして亡くなってるので、ジョルジュの中ではいつまでも「幼少時に唯一無償の愛を与えてくれたかけがえのない人」として良い思い出になってるけど、もしジョルジュが大人になった後も存命だったらどうだったろう。元々処世術に長けたしっかり者のジョルジュだから、自分が大人になって社会に出た後もいつまでも「妖精のような」おばさんを見ていたら、だんだん評価が変わっていってしまうこともあったんじゃないかなと。それを考えると良い思い出のまま亡くなってよかったのかも知れません。実際、私も子供の頃一日中遊んでくれるので好きだった叔父さんが社会的には無職引きこもりだということを理解してからはちょっと見る目が変わってしまいましたからね…。決して軽蔑とかじゃないんだ…。ただ反応に困ったというか…、うん…。

収録コミックス

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