山岸凉子漫画感想ブログ

山岸凉子先生の漫画作品の感想を書いていきます。普通にネタバレしてますのでご注意ください。

社会に適合できない天才はどう生きていけばいいのか。「牧神の午後」1989年

あらすじ

1909年。ロシアバレエ団の新人、ヴァーツラフ・ニジンスキーは「アルミーダの館」で衝撃的なデビューを果たし、その異常なまでの才能で人々を驚かせ続けた。
しかしバレエマスター、ミハイル・フォーキンだけは、ニジンスキーの天才性の裏にある「社会にまるで適応できない」という重大な欠点に気づいていた。


翼を持った者には腕がない! 腕がある者には翼がない。
それがこの地上の鉄則なのだ。

伝説の天才バレエダンサー・ニジンスキーのお話。ミハイル・フォーキンの視点で描かれています。
上昇し続けて見えるあり得ない跳躍! 事故と間違うほどの拍手の音! 吠えるような歓声! 感動を通り越して動揺しはじめる観客! すごいなニジンスキー! 踊ってるとこ見たい!

顔が変わった!?
姿が…フンイキが変わる!?
変身!? いや…! あれはそんな生やさしいものじゃない。
あれは…あれはまさしく憑依だ!

フォーキンは「憑依状態」(バレエ漫画にあるまじき単語)のワッツァから金色のオーラが出ているのに気づきます。ワッツァは人間を超えた何かなのか も知れない…。ワッツァの才能に驚きながらも、その反面、社交性が一切なく日常を生きていくことすら困難なワッツァの「影」にも気づきはじめます。

「ワッツァ、4メートル半も跳ぶなんて…よほど勢いでもつけているのか?」
「別に勢いなんか…。跳べるような気がしたから

フォーキンは「曲がるような気がするんだもん」という理由でスプーンをクニャクニャ曲げて見せた知人の息子とワッツァをダブらせます。子供のように既成の事実にとらわれずに「できる」と信じていられることが彼の力の源なのか。しかし、事実にとらわれないということは現実を習得できないことと同じ。ワッツァが世間の中で摩耗してしまうのではないかと危惧するフォーキン。
この作品ではニジンスキーの驚異的なバレエの才能を「一種の超能力」として見てて面白いです。『HUNTER×HUNTER』で軍戯の天才少女・コムギちゃんが念のオーラ出せるみたいなかんじ? あの娘も軍戯以外何もできない子だった。
「翼はあるが腕を持たない」という比喩が上手い。実際、ある分野で天才と呼ばれる人たちって私生活はメチャクチャだったり人格破綻してたりしますもんね。

その後、ワッツァは普通の男としての幸せを追い求めて女性と結婚したら、パトロンで同性愛の関係だったセリョージャから恨まれて迫害され、耐えぬ心労からかついには発狂してしまいます。すごい天才らしい生涯だな。
この物語ではフォーキンさんがワッツァの異能も欠点も気づいてくれてるから、フォーキン助けたれよ!と言いたくなってしまう。でもしょうがない、フォーキンはロシアバレエ団からいなくなるし、ニジンスキーの運命は決まってるからね…。これ実在の人物だからね…。

ワッツァは母親から愛されていなかったような描写があります。厩戸王子もそうだけど、才能に恵まれていても、母親からの愛だけは得られないこともある。悲しい。でもワッツァは好きな子と結婚できてるから、ロリに走った厩戸王より幸せかも知れない…。

収録コミックス

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