山岸凉子漫画感想ブログ

山岸凉子先生の漫画作品の感想を書いていきます。普通にネタバレしてますのでご注意ください。

肉体を捨てたストーカー。「バンシー」1979年

あらすじ

わけも分からず夜の森を彷徨う美少女は、ある小説家の家に辿り着くが、誰にも気づいてもらえない。
オールドミスのドロシイは下宿の窓から、ある小説家の家を双眼鏡で見つめる。
子供たちの間では、バンシー(泣き女)が出るという噂が立っていたが…。


ファンレターくらい読んであげなよ。
若きイケメン小説家・ケヴィンの家に吸い寄せられる謎の美少女「バンシー」は、実はオールドミスのドロシイ(山岸先生流ブッサイクに描かれている)の精神体だった。生霊ストーカー。
日本でストーカーが話題になり始めたのが2000年代頃だから、この作品はかなり先を行ってますね。
誰の目にも映らないバンシーは憧れのケヴィンの私生活を覗き見るが、ケヴィンと妻のベッドシーンを見た途端、バンシーは彼と自分との関係を「思い出す」。

思い出したわ、思い出したわ、あああ
あたしは彼と寝ることができなかった!?

彼が私を愛しているのを知っていながら、なにもできなかった。
そう、彼は私を愛していた。たしかに!!

バンシー(ドロシイ)はとっても思い込みが激しいです。というか、彼女の中ではそれが真実。なぜかというと、ドロシイは「精神」だけの世界で生きてるからです。
実際の醜い自分の肉体と現実を忘れ、美しい少女の姿をした生霊となって、彼に近づこうとする。それがドロシイの愛し方。

ケヴィンの奥さんフェイはその全く逆です。バンシーから「打算的で放埒で欺瞞に満ちている」と評され、ケヴィンの周囲の業界人からも「美人だけど、天才を夫にしたがる打算的な悪女」と見られてますが、現実世界での立ち回りが非常に上手い。
客人の接待、マスコミへの対応、天才すぎて社交性がいまいちな夫に代わって取材陣の相手をしたり謝ったりフォローを入れたり。大人として、天才の妻として、しっかり「肉体」を使える(=行動できる)タイプの女性です。
バンシーが言うセックスができるだのできないだのはその一端に過ぎません。ろくな仕事もせず安値の下宿で夢(ケヴィン)を見てるだけのドロシイとは違うんです。

私は精神(スピリチュアル・ラブ)
彼女は肉体(フィジカル・ラブ)

泣き叫びながら目を覚ましたドロシイは、もう美しいバンシーの姿ではなくなっていました。気持ちはバンシーのままだったので、さっきまでの長い金髪、美しい顔・手・足、若さを持たない自分に茫然とするドロシイ。

あたしは、あたしは、ドロシイ。
若くない、美しくない、ミス・ドロシイ。
いやだいやだ、思い出したくない!! 見たくない!!

そして、ドロシイは捨てたい現実をついに捨て去り、精神だけの存在になった。ケヴィンの耳にバンシーの泣き声が聞こえた気がした…。

ケヴィンがなぜフィンを選んだのか。彼女にはしっかりとした肉体があったからじゃないかな。どんなに愛してても、望遠鏡で覗いたり心の中で強く思ってるだけでは、フィンのようなフィジカルの強い女の行動力にはドロシイは一生勝てない。
…人としての一生が終わったところでやっとケヴィンに(泣き声)が認識されるようになったので、この後の勝負はわかりませんが。

収録コミックス

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